ランスは、各々の地方が、各々の民族の違いが作り出して来た歴史に占める役割が、 様々に織り成す郷土色を生み出し、今日もなおその個性有る魅力を保持しています。 
このページで、その地方色の魅力を、少しづつお伝えして行こうと思います

第一回目

まずノルマンディー地方を、ご紹介します。

フランスの北海岸、英仏海峡に望むこの地方は、毎朝霧に覆われる、小雨がちの長い冬と、ごく短い夏の光のコントラストが、 印象派を生み出す背景となりました。 10世紀始め、ヴァイキングによって建国され、11世紀中葉から13世紀いっぱいヨーロッパの歴史を左右した、重要な土地でした。
乳牛とチーズと、リンゴ酒とカルヴァドス、焦げ茶の梁と白壁の木造住宅、チョーク層の土壌が作り出した白亜の断崖絶壁の海岸線を持ち、 第二次世界大戦ナチからの解放を決めた上陸作戦の土地、現在のイギリスの支配階級を形成したこの土地を、徹底解剖してみましょう。

〔北方ゲルマンの移動〕

現在「西欧」と呼ぶ地域は、ローマ帝国がインフラの基礎を作り上げた事は、 ご存じの通りです。
あまりに広大になりすぎて統治不能になった事で東西に分割し、あまりに豊かになりすぎて、国が守れなくなって(どこやらの現在を見る様な・・・) 崩壊した原因は、 周辺民族ゲルマン民族による国家解体でした。
様々なゲルマンの諸族が、少しでも豊かな土地を求めて移動を続け、戦いを繰り広げながら、徐々に定着して行った事により、アルザス(エルザス族)、 ブルゴーニュ(ブルグンド族)、フランシリアン(フランク族)といった地方の輪郭、当時は各々が独立した勢力を形成してゆく間に数世紀が過ぎてゆきます。
9世紀後半、最後のゲルマン人の移動がみられました。北方ゲルマン、つまりスカンジナヴィア人が、西欧の富を求めて攻め下ってきました。 西欧中の河川を遡り、夜陰に乗じて街町を襲って食料を始め金銀や女達をさらい、町に火を放って去って行くのです。 9世紀後半から10世紀半ば位の100年間、西欧に大変な厄災を振りまき、人々を恐怖のどん底に陥れたのです。
910年頃、ロロンと言う酋長に率いられた一団が、フランスの北の一帯を占領し暴れ回っていました。
どうしてもそれらを撃退出来なかった時の国王、メロヴィンガ王朝のカルル3世が、ついに撃退をあきらめ、懐柔策をとりました。
すなわち、占領地を公式に領地として認知し、爵位を創設する。フランスの封建諸公として形式的に国王に臣下の礼を執ってくれれば、 その領地を自由に治めて良い。
ノルマンディー公爵家の成立です。時に912年の事でした。
その5代目の当主のロベール公、あまりに手強い手だれの騎士だったがゆえに悪魔のごとき、と送り名を送られた公爵〈ロベール・ル・ディアーブル〉は、自分の城のお堀端に工房を持っていた、あるなめし革職人の親方の娘にほれてしまいます。あたかも剥がしたばかりの生皮を、堀の中で屈み込んで洗っていた娘っ子の、真っ白な太ももに見とれてしまったのです。
彼女が一子をもうけ、ギヨームと名付けられます。
この庶子ギヨームが、イングランド史上初めて7王国全部を征服し、全イングランドを統一した、ウイリアム征服王となります。
この間の逸話は大変複雑、且つとても面白いのですが、ノルマンディー公国の最初の首都、バイユーに残る文化財『マチルダ王妃のタピスリー』で図柄により詳しく語られています。
このノルマンディー公ギヨームによる、1066年のイングランド征服により、イングランドの支配階級は、全てフランス貴族で占められる事となり、英語の単語でフランス語と似ているものは、全てその時もたらされた物なのです。 そして、フランス国内のノルマンディー家の領地、当然ノルマンディーと、さらに併合された西の隣国ブルターニュをめぐる、フランス王家とイングランド王家の熾烈な戦いが始まり、およそ4世紀も続きます。
最後の130年くらいが一番重要な局面で、その部分を『百年戦争』とよびます。
ノルマン征服王朝は3代目で直系の男子を失い、三代目の娘が、フランスの王家にも連なる大貴族、ロワール河下流域の大領主アンジュー伯に嫁ぎ、一子アンリを設けます。すなわち、プランタジネット朝の始祖、ヘンリー2世です。
ノルマンディー家が出したイングランドの王家(ノルマン征服王朝)に、アンジュー家の血を半分入れた次のフランス系イングランド王朝(プランタジネット朝)の成立です。
時のフランス王はルイ7世。その妃が、フランス南西部アキテーヌ公の独り娘アエレノールでした。
時あたかも十字軍盛んな折り、ハンサムで優しい夫ルイに飽き足らず、十字軍を率いて凛々しい騎士の華の如き、若きイングランド王ヘンリーに憧れて夫に離婚を求め、そのままヘンリーに押し掛け女房宜しく、再婚します。その結果、当時のフランス全土の七分のニ程をも支配した、アキテーヌ公領が、イングランドにもたらされてしまいます。
その二人の間に、小ヘンリー、リチャード獅子心王、ジョン欠地王、等が生まれてきます。
ワインの名産地ボルドーは、そんなわけで15世紀一杯まで、イングランド人(ノルマン人とアンジュー人)の物でした。
まとめると、ノルマンディーという土地は、11世紀から15世紀まで、ヨーロッパの主力を形成していた、ということです。
今回は、ノルマンディーの歴史的背景を語りました。

ノルマンディー、そこはヴァイキングが建国した土地。
イングランドとフランスとの両方の主権を、フランス王家と争った国。
漁業と酪農の土地。
チーズが豊富で、リンゴ酒「シードル」、その蒸留酒「カルヴァドス」の産地。
コルネイユ、モリエールを排出し、エリック・サティー、ウージェーヌ・ブーダン、クロード・モネを生んだ土地。
木造教会を建て、セーヌ河と英仏海峡に依て立つところ。
北フランスの真珠。

次回、もっと具体的に、見どころのご案内をすることにいたします。
今後もどうか、ご愛読下さい。

 

セーヌ河に沿って

前回にご紹介しました、ノルマンディー地方を、今回はもう少し具体的に解剖して ご紹介してみましょう。
パリを中心とする半径5~60キロの、首都圏「イル・ド・フランス」は、別名『フランシリアン地方』といい、フランスのご先祖フランク族が、 現在のピカルディー(ノルマンディーの東)から勢力を拡大し、王国建設の中心地とした所。メロヴィンガ朝、カロリンガ朝、 それに続くフランス初代王朝のカペー朝が、よりどころとした、いわゆるフランスの発祥の地。
そこから西北西につながって、英仏海峡に望む『ノルマンディー』は、その中央をセーヌ河によって二分されます。
そのセーヌ河とその右岸、ノルマンディーの東側が、上ノルマンディーと呼ばれ、首都はルーアンです。
地政学的にも、風俗的にも、よりノルマンディーのニュアンスが色濃く残っています。
「ノルマンディー種」の乳牛、焦げ茶の木の梁の白い漆喰壁の家。なだらかな起伏と、ボッカージュと呼ばれる茂み。
セーヌ左岸、ノルマンディー西部、英仏海峡に突き出す三角形の大きな半島、コタンタン半島が、下ノルマンディー。カンを首都として、西に行く程、隣接するブルターニュの地方色が色濃く影響して来ます。
固い玄武岩を積み重ねた四角い家、平らな地形と肉牛もちらほら。

<上ノルマンディー>

城と修道院と橋。

なんと言っても、見所は、セーヌの流れに沿って続きます。
ノルマンディー家=イングランド王家と、カペー家=フランス王家の攻防は、セーヌに沿って、繰り広げられて来ました。
両家が築き、奪い合って激しい戦いを繰り広げた、シャトー・ガイヤール、シャトー・ロベール・ル・ディアーブルなどの城塞跡、 シャトー・デタラン/シャトー・ド・シャン、等など多くのお城が歴史に重要な役割を果たし、現在見学者に解放されています。

アベイ・ルート「修道院街道」と名付けられる程、修道院(の廃墟)が数多く存在しています。
モン・サン・ミッシェルは別に改めて一章を割くとして、まず筆頭にあげられるべきは、ヨーロッパ建築史上に燦然と輝く、アベイ・ド・ジュミエージュ。
このジュミエージュ修道院をして、史上初めて、『ゴシック』の原始的アーチが使用された建築例とされています。(もう一カ所、パリ北部ピカリディーの『モリアンヴァル修道院』とが、確認される限り最古のゴシックのアーチの出現です。) 次に、モン・サン・ミッシェルに修道院を建設する際、最初に移籍修道僧を派遣し た『サン・ヴァンドリル修道院』も見逃すべからず! あともう一つあげるなら、フォンテーヌ・ゲラール修道院(跡)も必見です。 そしてセーヌと言えば、文字通り<橋>を避けては通れません。 ロワール河流域の様に古い橋は残っていませんが、それぞれの時代の建築技術の粋を極めた吊り橋が、重要な役割りを担っています。 上流から下流にかけて、『オードメール橋』、『ブルトノー橋』、そして一番新しい『ノルマンディー大橋(PONT DE NORMANDIE)』は、 ル・アーブルとオンフルールを結んで、セーヌ河口の両岸の往来を可能にして、威容を誇っています。

印象派のノルマンディー

ノルマンディーの繊細な光と、セーヌの流れ、そしてノルマン人「クロード・モネ」のいずれが欠けても、あの『印象派』は生まれなかった、と言えるでしょう。
モネが最後に居を構え、数々の若手の育成に寄与し、あの『睡蓮』の大連作が誕生した、ジベルニーは、復活祭前から過ぎこしの祭りまで、 4月~10月初(要するにお花の咲いている時期ですね)にしかオープンしませんが、ぜひぜひ訪ねたい所です。

そして、なんと言っても首都ルーアン。
モネによる『ノートルダム大聖堂』の64点の連作は、この美術運動の大きな指針となりました。
さらに、モネ、シスレー、ピサロ、ルノアール等などが、豪農の屋敷「サン・シメオン邸」に入れ替わり立ち替わり長逗留して、 描き続けた古い小さな港町オンフルールは、路地に入る程、当時の面影を残し、今なお多くの観光客を引きつけています。
19世紀、フランス社交界に戸外での休暇を過ごす発想がイギリスからもたらされて作られた、新しい華やかな海のリゾート・タウン、 ドーヴィル、夏ごとにそこに集う上流階級のパトロンに連れられた、売れない(!)画家達は、隣の町トウルヴィルにて、 海水浴の光景なども画題にしました。
そして、セーヌ右岸に行けば、ノルマンディーの土壌『チョーク層』が激しく浸食されて、断崖絶壁の海岸が、不思議な奇観を形作るエトルタは、 アルセーヌ・ルパンのシリーズ『奇岩城』のイメージを生んだ所です。
『アルセーヌ・ルパン記念館』もぜひ訪れましょう。
さらにその東、フェカンには、有名なアペリティフである、ベネディクティーヌを造っている修道院の工場も見学出来ます(試飲付き!)。

<下ノルマンディー>

コタンタン半島はノルマンの故郷。

ヴァイキングの一酋長ロロンが『ノルマンディ公爵』に封じられ成立した公国の、最初の首都が、半島東側の付け根にあるバイユーの町でした。
ここにある『マチルダ王妃のタピスリー』と誤って呼ばれて来た<刺し子>は、天地60センチ、長さ70数メートルに、6代目公爵ギヨームによるイングランドの征服統一の背景を描いた一大絵巻で、歴史資料としても、美術品としても超一級。
日本の『源氏物語絵巻』にも匹敵する存在です。
ノルマン・ゴシックのカテドラルも抜きん出た威容を誇っています。
フランス王家との抗争が起こり、領国を王領に対抗するため、パリにより近いルーアンに新しい首都を開きました。
ただ、攻められやすい地形であったため、首都をまた奥地に引いて建設したのが、カンの町です。 6代目公爵ギヨームが、若さ故の不注意で、ローマ教皇の許可を受ける前(大領主の血族同士の結婚には教皇認可を要した)に決めてしまった、親戚『フランドル伯』の娘マチルドとの結婚のせいで受けた、 教皇からの破門の赦しを受けるために建立した修道院に、イングランド統一をなした、ウイリアム征服王、として葬られています。 半島の付け根を横断するルート沿いには、古い情緒あふれる町が続きます。
サン・ローの中心部はかっての城塞の石垣がそびえています。
ヴィルデュー・レ・ポワルは、銅細工の町。旧市街の通りの両側には、銅と真鍮の様々な鍋釜、オブジェ、カザリ物が飾られて売られています。
さらに、サヴォア地方のアヌシーとならんで、教会の釣り鐘の鋳造でも名高く、工房が見学出来ます。
岬の先端は、シェルブール。
ある年代の方々はご存知の、映画『シェルブールの雨傘』の舞台になった、ナポレオンによって強化された、対イギリス軍事政策上、最も重要な軍港でした。
第2次大戦で、ナチス・ドイツに攻められて陥落し、そのナチス占領軍を攻めたアメリカ軍に爆撃され、古い町並みはほとんど残りませんでした。
私の知る限り、人口4桁以上の町で、唯一中華料理屋の無い(!)町です。

ところで、コタンタン半島と言えば、その東側の海岸が、何しおう断崖絶壁が途切れ途切れに続き、そこが実に『史上最大の作戦』あの1939年6月6日未明に始まった、 上陸作戦の最大のポイント地点でした。 ユタ・ビーチ、オマハ・ビーチ、ゴールド・ビーチ、ジュノー・ビーチ、ソード・ビーチなどと米軍が名付けた暗号名の海岸線を行けば、浮き桟橋の残骸や、 戦車の残骸が浜に半ば埋まって今も残してあり、人間の愚かさを、改めて感じさせてくれる事でしょう。 そして、その後背地のボッカージュと呼ぶ、微妙な起伏の底部の茂みにはリンゴの木が多く植えられ、リンゴの醸造酒『シードル』を造っています。 バイユーには、ボビンレースの学校が有り、MOF(フランス最優秀技能者章)を持つ先生方が、ノルマンディーの伝統レースの技術継承に励んでいます。 レースといえば、内陸のアランソンも中心地で、「絵画、レース美術館」および『レース美術館』で、実に繊細で優美な、驚く程細工の細かい名作の数々をご覧頂けます。 ちなみに、初代アランソン公ジャンが築いた城塞の塔が有りますが、その2代目が、孤立無援だったジャンヌ・ダルクを最後まで擁護し守ろうとした男で、神のみに使えたジャンヌが、唯一心を赦した「人間」の男性(!)でした。

さて次回は、名高い「カマンベール」チーズの誕生のひみつにせまります。

 

 

海岸では漁業、内陸では酪農

今までにお話して来た通り、最後のゲルマン人の移動、「北方ゲルマン」(いわゆるヴァイキング)の南下により形成されたのが『ノルマンディー公国』です。 
ところで、西ローマ帝国の崩壊時に<蛮族>相争いながら土地を求めて移動し、定着して地域性が形成されつつ合った頃、 遅れてやって来た北方ゲルマン人ヴァイキングに残されていた土地は、およそ魅力的とは言いがたい森とやせた石灰層の土地で、農耕には全く不向きでした。 
海岸に定着した彼らは、元々の技術で海の幸を求めて暮らせましたが、一歩内陸に入ると、放牧して暮らすしか術は有りませんでした。 (最も彼らにその時、農業の技術も無かったのですが)。

 

ヤギと豚と羊から、だんだん乳牛にウエートが移り、ジャージー種(いまだにイギリス領の島原産と言われているベージュの肌の牛)から、 焦げ茶の斑点を有する『ノルマンディー種』の牛が発生し、酪農が土地の重要な産業になって行きました。

 

酪農と言えば、ミルク。そして、バターと生クリームとチーズです。
ノルマンディーはチーズの宝庫。ポン・レヴェック、リヴァロー、ヌーシャテル等、世界中にその名を轟かせているチーズが目白押しです。
それらの中でも、ノルマンディーと言えばやはり『カマンベール』。
もはやフランスを代表するチーズと言えるでしょう。

 

チーズの成り立ちをもっと良く知ろう

 

『原産地呼称管理法』APPELLATION D’ORTIGINE CONTROREE、のシステムをご存知でしょうか。
ある土地の、歴史と伝統から生み出されて来た特産物の、製品としての価値とその信用性を守る為に、 生産地名をその製品名として名乗る権利を法的に擁護し、ほかの類似品にその名前を名乗らせない様に、 規制する法律です。頭文字を取って<AOC>とか<AC>と表記されます。
特に、土地の固有性が製品の個性に大きく左右する農作物に多く使われ、代表的な物が、ワインとチーズです。
例えば、シャンパーニュ地方の法的規制された限定地域内で、土地特有の石灰質の土壌と気候との元で育った、 特定種の葡萄を原料に、伝来の厳密なプロセスで製造された発泡酒のみが、シャンパーニュ(シャンパン)と名乗る事が出来るのです。
生産コストが安い(!)というだけで、韓国で作らせた物を『大島紬』と大書して販売する日本の現状は、それを生み出し育んで来た奄美大島と、 土地の人々と、その歴史への冒涜と言えるでしょう。
『大島紬』とは、奄美に生きる人々が代々伝わる手法により、土地の原料だけを使用して製造した特産物で、今の日本の流通業のやり方は、 奄美が歴史と島民の生き方が生み出した『知的財産』の侵害であり、経済的被害どころか、その土地の否定に繋がることになりかねません。
A.O.Cのチーズも同じです。
チーズは元来各農家で、親父から教わったやり方で、細々と作っていた換金作物でした。各村や町はおろか、各農家ごとに独自に(自分勝手に?)作り、 色、形、味、香りそれぞれに異なっていたはずの物だったのです。
現代のような「細菌学」も「発酵学」も存在せず、バクテリアによるタンパク質の分解プロセスも知らず、ただ経験とカンと習慣とその家の言い伝え、 で作られていたのです。市場での売れ行きが良く、人気があっても、その村と周辺だけの消費にとどまっている程度の産物でした。

 

カマンベールの成り立ちは意外な事に・・・

 

技術や知識の社会的蓄積や、流通等が発達していなかった時代において、技術革新に励み、そのノウハウの蓄積がなされていた唯一の場所は、修道院でした。
葡萄栽培や、発酵プロセスの技術の発展も、広大な領地を有するそれらの修道院の管理下に有りました。
そこへ革命が勃発します。

特権階級の特権の廃止、修道院の領地の細分化と競売が行われ、農村は一挙に農奴制から自作農制へと移行し、 同時に彼らの特権であった「知識」も流出して行きます。
ワイン生産技術もそのうちの一つで、一気に国内に広がり、同分野でのフランスの他のヨーロッパ諸国に対する優位性が確率するに至った訳です。
チーズも、その例に漏れませんでした。
シャンパーニュとブルゴーニュの境にほど近い町モーのある修道僧が、僧院を追われて逃避行のさなか、 ノルマンディーの小さな町ヴィムーティエで途方に暮れているところを、マリー某という町娘に献身的に匿われました。

修道僧は、親切のお礼に、モーの修道院秘伝のチーズ、ブリーの製法のノーハウを、マリーに残します。

彼女は数年後、近くのカマンベール村の農家「アレル家」に、そのチーズ造りのノーハウとともに嫁ぎます。

そう、これがカマンベール・チーズの生みの親、 マリー・アレルの物語です。

その孫娘が、鉄道の開通式に臨席した皇帝ナポレオン3世に、アレル家自慢のチーズを献上し絶賛を浴びます。時の権力者の賞賛を得た事と、 産業革命のシンボルである鉄道の誕生とそれによる流通の拡大という、まさに時代の波に乗って、カマンベールはナショナル・ブランドにのし上がって行きます。

前述のA.O.C.の法律にのっとって、<CAMANBERT DE NORMANDIE>と表示して出荷出来るカマンベールは、以下の説明にある行程を経て、 特定の地域で生産されます。

ただこのチーズは、同法律が制定されるよりずっと以前に全国的に有名になり、大メーカーが各地で工場生産していたため、 ノルマンディー圏外での生産とその販売の中止を求める事が不可能でした。

そこで、一般的な加工品は<CAMANBERT(カマンベール)>とだけ名乗る事は認められたのでした。 

A.O.C.の権利を有する生産者は、指定区域の所在地により限定されており、それ以外の地域生産者は、同じ ノルマンディー内で意欲的に丁寧に手作りしても<CAMANBERT DE NORMANDIE(ノルマンディーのカマンベール)>とは名付けられません。

そういう生産者達は、<CAMANBERT FERMIER (農場製)>と銘打って出荷している現状も、知っておくべきかもしれません。

 

ちなみに現在、カマンベール村は人口わずか200人、牛の数のほうが確実に多い、眠った様な静かな村です。
その名称が村の名前に由来するこの有名なチーズを、実際に造っている生産者は、しかしながら村にただ一人。まだ40代の、 フランソワ・デュランさんは、この静かな土地がすっかり気に入り、住み着いてチーズ造りを始める様になって、まだ20年ほど。 しかし、伝統の製法を厳格に守り、徹底したこだわりのもとに製造しています。

生産量に限りが有るためなかなかお目にかかれませんが、
< CAMANBERT DE NORMANDIE FABRIQUE AU VILLAGE DE CAMANBERT > FRNACOIS DURAND
(<カマンベール村内生産のカマンベール・ド・ノルマンディー>フランソワ・デュラン)
と いう堂々とした金色のラベルには、彼の誇りが伺えます。勿論マリーの肖像も!

口に含むと、濃厚なミルクの味わいが広がり、飲み込んだ後までも尾を引き、そのコクに思わず微笑みがこぼれる事請け合いです。

なおヴィムーティエの町にはカマンベール博物館があり、昔ながらの道具類が展示され、製造過程が分かりやすく説明されています。 また、世界中で造られているカマンベール(!)のラベルのコレクションも必見です。
町役場の前の広場には、青銅の「牛」の彫刻が堂々と立っており、かのマリー・アレルがその横で静かに微笑み佇んでいます。 

 

カマンベールの出来るまで

チーズと一口に言っても、実に様々なタイプが有ります。
まず、原料別に4種類に分かれます。
1)牛(ヴァッシュ)のミルク
2)ヤギ(シェーブル)のミルク
3)羊(ブルビ)のミルク
4)それらの混合
イタリアのモッツアレーラは本来「水牛のミルク」で造りますが、これは1)のヴァリエーションです。 

次にミルク自体の違い。

ア) 搾ったままの、無殺菌状態の元乳で造るタイプ (LAIT  CRU/なま乳)
イ) 低温殺菌(60〜70度)で殺菌したミルクのタイプ (LAIT PASTEURISE/低温殺菌乳)
ウ) 脂肪分(生クリーム)を取った後や、別のチーズを造った後の絞り汁の、
脂肪分の薄い液で造るタイプ (PETIT LAIT/上澄み乳)

当然、ア)が一番おいしい。                                       ところが、この製法を、EU委員会は禁止しようとしている! 高温殺菌(120度!!)の長期保存用の工業製品ミルクを使わせようとしているのだ。                                    それだと、大量生産の工場製チーズと一緒くたになってしまう。

美食大国フランスの文化が、たいしたチーズを造っていないEUの他の国々のやり方に、飲み込まれてしまうかも。。。 (どこの世界でも、官僚の想像力の無さには情けなさを通り越して、ただただ悲しくなるのみ。。。)

最後に、熟成方法の違い。

あ) 造って直ぐ食用になるタイプ。いわゆるカッテージ・チーズと呼ばれるものがそのタイプです。フランス産ですと、フロマージュ・フレと呼ばれます。お砂糖を混ぜてデザートとして子供達に人気です。

リヨンの周辺では、『フィッセル』と呼ばれて、刻んだアサツキを添えて塩味で供されたりします。

い) 表面にカビを付けて、短期間(数日〜数週間)熟成させるタイプ。柔らかいのが特徴です。(テンダー・タイプ)
う) 熟成期間中、アルコール(コニャックやカルバドス等産地によります)で何度か表面を拭いて、カビの状態を促進させるタイプ。 (ウオッシュ・タイプ・チーズ)
ノルマンディー産なら「リヴァロー」等。
え) 長期熟成(1年〜数年間)させるタイプ。山岳地法に多い製法です。一般的に大型で、 固い、ハード・タイプ。

トムとジェリーのジェリーがだいすきな、穴ぼこだらけのチーズ(多分グリュイエールですね)はこのタイプになります。

カマンベール・チーズは、分類すると、無殺菌生牛乳で数週間熟成のテンダー・タイプにあたります。

生産農家の一日のプロセスは、次の通りです。

1) 早朝6時頃からミルクを暖める作業で、一日が始まります。 前の晩に搾乳し、12度Cで保存したミルクを32度まで暖めて、乳酸菌を加えると発酵が始まります。
2) 遠心分離機で乳脂肪分を20%取り除きます。
3) 仔牛の第四胃から採集した凝乳酵素を添加します。
4) 100リットル入りの容器内で凝固した状態(カード)に、薄いジュラルミンのへらで縦横に切れ目を入れます。
5) 直径11,5cm 高さ13cmの筒に、大振りの「おたま」で一掬いづつ入れて行きます。
6) 時間とともに内容量が筒の中で下がるので、1~2時間置きに同じ作業を3~4回繰り返すと、筒が一杯になります。
7) その間、水分(脂肪分の抜けた薄いミルク=上で述べた「上澄み乳」)が少しづつ抜けて行きます。  さらにその筒を上下ひっくり返します。
8) ひっくり返す事5回、最後のお玉一杯を入れて1~2時間後、筒からはずす頃には既に夜の8時を廻っています。
9) 最後に塩を振り、カビを付け(ペニシリンの一種の白カビです)、3週間以上熟成させます。

その間も、温度管、風の通し方、ひっくり返すタイッミングのはかり方等々、かかる手間ひまは膨大です。

熟成完了後、紙でくるみ、経木の丸い箱にいれると、おなじみ『カマンベール』チーズの誕生です!

さあ、心して頂きましょう。一杯の赤ワインとともに。